正義を論じることはできるか –メタ正義論の基本的な論争図式–


"究極的な正義"を志向して有意義な議論をすることは可能か。この問いに肯定的に答える理路は、概ね以下のようになるだろう。

 

正義の実在(もしくは実在の不在)を主張する場合、その実在に絶対確実の客観性が伴うものとして主張することはできない。なぜなら、「ある」も「ない」も、一つの信念・命題として意識され把握される限り、必ず「と私は考える」の形に回収することが可能だからである。従って、絶対確実の客観性をともなった正義の実在論(正義は絶対確実に存在する)や非実在論(正義は絶対確実に存在しない)など、実在に関する積極的な主張は全て未達に終わる運命にある。このような相対主義の洞察は、まずは正しい。ただし、その上で、そのような絶対確実な実在については、<私たち>人間が認識したり言語化したりすることはできないものの、その存在の可能性までをも原理的に否定できる訳ではない。*1

 

相対主義の洞察をスタート地点にしてもなお、正義の実在を主張することは可能であるばかりか、より優れた選択肢と言いうる。有力な応答は主に以下の通りである。

①正義の信念が「と私は考える」の形に回収可能であることを理由に、その実在を否定(※不在の肯定ではない)する場合、そのような相対主義的懐疑は、正義の信念に限らずおよそ知覚される全てのものに適用されなければならない。しかし、「すべてが恣意的であるならばなにかをことさらに恣意的だと言い立てることはまったくの無駄である。」*2

相対主義的懐疑は、全てのものの実在的地位を一律に否定してしまうが、全ての実在の確からしさが全く横並びであると考えることはおよそ不当である。相対主義の言うように実在の定義を絶対確実の客観的なものとするのは「あまりに高い要求水準を人間の知に課している」*3に過ぎず、客観的実在をあくまで可謬的・改訂主義なものと捉えることが、グラデーション的に実在する正義の確からしさについて有意義な議論のために不可欠であるし、また実際の人間が遂行するありよう(例えば科学など)を示していると考えることができる。

③我々の信念が世界についてなんらかの適合や予測に成功しているのは、「世界がまさにわれわれの認識が捉えるようなあり方をしている」*4からである。実在を想定しない立場(非実在論、相対主義)は奇跡論法に頼る必要があり、実在論の方が理論的負荷が小さいことから、実在論の立場がこの時点ではより有力であると言える。

 

ただし、それぞれについては以下のような再反論が提起されうる。

①について:相対主義はその性質上、実在論に対して非対称的な立場として現れる*5。①の議論は、「相対主義者」への有力な反論にはなっても、相対主義そのものへの反論としての射程は思ったよりも広くない可能性がある。

②について:正義に関する有意義な議論のために正義の実在を想定することが不可欠かどうかは必ずしも自明ではない。少なくとも、井上達夫のように相対主義と独断主義を等置してしまうこと*6は(実践的にはさておき理論的には)正当ではない可能性が高い。*7

③について:これは科学的実在論における議論と同型であるが、道徳的知識が何に対して適合・予測が可能であるのか、検討が必要である。快楽説的功利主義など一部の帰結主義を除き、道徳により適合・予測が可能なのはあくまで「我々がどのような道徳的判断をするか」にすぎない可能性がある。*8

 

上記の議論にはここでは深入りしないこととする。その上で、仮に正義(より広く言えば道徳)の実在を有意義に一旦は認めることができたとして、メタ倫理学的に明らかにすべき立場がもう一山ある。それが「当為判断のトリレンマにいかに答えるか」である。トリレンマによれば、以下の3つの立場は両立不可能である。

1.当為判断の認知主義:当為判断は認知的判断である。

2.当為判断の動機付け内在主義:当為判断には必然的に、それに対応した動機付けが伴う。

3.動機付けのヒューム主義:認知的判断そのものは動機付けを伴わない。

 

トリレンマ解決についてはさまざまな提案がなされてきたが、最も思いつきやすいものは、「当為判断の認知主義(1)を否定する」もしくは「動機付け内在主義(2)を否定する」の二つが挙げられるだろう。*9

 

このように議論を追っていくと、自ずと、

存在論の観点からは改訂主義的な道徳実在論をとり、

・トリレンマ解決の観点からは動機づけの外在主義をとる、

というのが、メタ倫理学的に一貫した有望な主張の一つであることが自ずと明らかになってくると思われる。(もちろん、実在論をとる以上はどのような意味で実在するかを明らかにする必要があるが、少なくとも自然主義は主張②③に親和的であろうことは想像に難くない。また、非認知主義をとる道もあるだろうが、私にはまだそこまで検討する力がないため、ここではおく。)

 

正義を論じる者はおそらく、法のあるべき姿を探求する者と概ね一致するだろう。法の理論としてどのような立場が最も魅力的であるか、これこそまさに探求されるべき問いであるが、どのような立場に立とうとも、少なくともこれまでの議論図式の中で検討され、例えば功利主義のような一見して一貫性の高そうな立場に比べ、法理論としての魅力だけでなく、メタ倫理学的にどれほどの強靭性を持つか、篩にかけられずにはいられないだろう。

ここが、正義を論じる入り口である。

 

*1:参照、入不二基義相対主義の極北』(春秋社, 2001)186頁

*2:安藤馨・大屋雄裕法哲学法哲学の対話』(有斐閣, 2017)p235(安藤応答)

*3:井上達夫『増補新装版 共生の作法』(勁草書房, 2021)15頁

*4:植原亮『実在論と知識の自然化』(勁草書房, 2013)4頁

*5:参照、入不二・前掲注1)86頁など

*6:参照、井上・前掲注3

*7:大屋雄裕『法解釈の言語哲学』(参照、勁草書房, 2006)125-126頁、191頁

*8:蝶名林亮『倫理学は科学になれるのか』(勁草書房, 2016)176頁

*9:そしてまさに安藤馨は井上達夫に対しどちらを選ぶのか、と問うている。参照、瀧川・大屋・谷口編『逞しきリベラリストとその批判者たち』(ナカニシヤ出版, 2015)27頁

"劇場型"実存としての人間--『フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路』書評

踊る人々のグループの写真

澤田直は、近著『フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路』にて、<異名者>というコンセプトを持つポルトガルの国民的詩人・ペソアの魅力を紹介した。

 

<異名者>とは、自分とは異なる人格、外見、来歴、文体を持った別人格の作家のことで、偽名や筆名(ペンネーム)とは異なる概念だ。ペソアによって生み出された異名者たちは、あたかも独立して実在する人間であるかのように、それぞれの人格・文体において作品を発表する。そして、異名者たちの作品は、お互いの存在に言及し、ときに雑誌の同一誌面に共存すらすることになる。

 

こうして生まれたのが、アルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスなどの異名者たちが、それぞれに詩を発表し、かつ相互に言及し合い、関係づけられる一つの劇的空間(「幕間劇の虚構」「人物によるドラマ」)だ。これこそ、フェルナンド・ペソアの極めて重要な特質である。

澤田はいう。ペソアの読者には、"異名詩人をキャストとして配した新たな詩空間をメタレベルにおいて読解することが求められている。"

 

では、「幕間劇の虚構」を、澤田はどう読解したのか。

澤田は本書で、劇場=ドラマという視座を、演劇性=擬態=模倣の視座へとスライドさせることで読み解いていく。

詩人はふりをするものだ

そのふりは完璧すぎて

ほんとうに感じている

苦痛のふりまでしてしまう

(「自己心理記述」)

 

ふりをする、つまり何者かに擬態し、模倣することを通して、対象をそのものとして経験し理解する本来的な可能性が開ける。これは、「わたしはわたし」であるという厳格な同一律のもと、自分とは異なる他者への理解可能性を排除せざるを得ないような、近代的な思考様式に対置されるものだ。ペソアの身振りは、複数性を一者へと還元することを拒否する身振りとして、つまり近代的な自我の概念へのアンチテーゼとして、位置付けられている。

 

このような澤田の読解において、<異名者>概念は、<わたし>と<あなた>の通訳不可能性を乗り越えるという意味で解釈されている。つまるところ、「私はあなたになれるのか?」という、近代的自我の同一性の問題に、換言すれば人格間の移行可能性に関する問いが中心に据えられる。

 

しかし、ペソアの読解としてこれで十分であろうか。

「<わたし>=人格とは何か?」という、人格概念そのものの転覆・構造的転換こそが、ペソアの格闘した問いではなかったか。

 

 

改めて、議論を整理しよう。ここでは、身体、人格、作者の三つの概念を分けて考えることが必要だ。

私という一人の人間がいた時、この世界に物質的な位置を占める"身体"は一つである。

次に、"人格"も多くの場合、一つの身体に一つと想定される。もちろん、一つの身体が複数の人格を持ち得る(乖離性同一性障害だったペソア自身がまさにそうだ)が、ある瞬間に同時に複数の人格でいることはできない。また、時間や場所によって人格を切り替えることは可能だが、おそらく自由自在に切り替えが可能なわけではないし、それが"人格"である限り、それぞれの人格内においては一貫した性格・態度である必要があろう。

では、"作者"はどうか。もちろん、作者はアプリオリには実在せず、テクストから再構成される存在に過ぎない。したがって、同一の身体、同一の人格から複数の作者は生まれうるし、複数のテクストが同時に存在できるが故に、複数の作者も当然同時に存在できる。複数の異名者が共存するのも、この"作者"のレベルだ。

 

しかし、そもそも作者は人格ではなく、解釈論上の参照点として後から再構成されるだけのものだから、執筆する側にとっては、"作者"が一貫した人格性を持つ必要は本来ないはずだ。澤田によれば、ペソアが異名者たちを作出した背景には、当時文学面で遅れていたポルトガルにおいて、さまざまな種類の作品を同時に手掛け、生み出す必要があったからだという。であれば、それは一人の作者名において様々に相矛盾する立場の作品を発表することでも十分に達成できる。その作者は、読者から見るとなんら一貫性のない破綻した人格に見えるかもしれないが、それが人格ではなくあくまで作者に過ぎない点で、何の問題もない。

 

ペソアはなぜ、<異名者>などという、あえて人格的な概念としての作者を作り出す必要があったのか。

 

ここに、ペソア「劇場型」実存として解釈されることを企てたとの解釈が提出される。(澤田は随所で的確にもこの可能性を示唆するが、本書では十分に汲み尽くされることがない。)

 

ペソアは人格の本質を、劇場、つまり内部での主体間の共演のようなものであると主張したかったのではないか*1。もちろんそれは、他者との交流こそが真に有徳な人間を形成するというような、人格同士の共演の話ではない。また、本書でも言及のある「分人」概念は、一つの身体内における人格間の移行可能性に関するものでしかない限りにおいて、引き続き人格概念のくびきの下にある。

ペソアの意図は、それぞれの人格が劇場的であること、つまり複数の異なる要素・方向性による競演=饗宴である*2こと、それが故に結末が予測不能であり、アプリオリな本質や結論がなく、常に現在進行形("劇場型"犯罪というときの意味はこれである!)であること、これを表現していると解釈すべきではないか。

このような意図を持ったペソアにとって、人格概念を前提とする近代の言葉は自己を表現する言葉たり得ない。例えば、人格こそがまさに「分けられないものin-dividual=個人」という単位であるとの前提のもと、近代の言語は「私I」より小さな主体を表す固有の人称代名詞をもたないことがその好例だ。しかもペソアによれば、そもそも言葉で表現すること自体が、感じていることとの間で必然的な不一致を起こす。したがって、「人格は劇場である」というテーゼは、そのまま言語化しても読者に伝わらない。

あらゆる真の感情は知性のうちでは嘘である。というのも感情が生まれるのはそこではないからだ。あらゆる真の感情はそれゆえ虚偽の表現をもっている。表現するとは、自分が感じないことを言うことである。

(「環境」)

 

だからこそペソアは、異名者という虚構的人格を最小単位にした劇的空間を作り上げ、読者の側がそれぞれの個別的属人的な言語感覚を通して、「劇的空間こそがペソアという実存である」と内的経験として観取することで初めて、劇場型実存として存在できるのである。

劇場にはゴールを決定する主体がいない。舞台があり、仮面の演者と無名の観客がいるのみ。そこに主体は、いない。

これは実存主義のありうべき一つの解釈であると言える。

 

 

このような実存主義的解釈に基づけば、本書プロローグで紹介される以下の詩の見え方も変わるだろう。

ひとつではなく いくつもの魂をぼくはもっている

ぼくではない たくさんの自分がいる

けれども 彼らとは無関係に

ぼくは存在する

彼らを黙らせ ぼくが語る

2行目から5行目は、まさに「自分」たる身体が複数の人格を持ちえること、そしてそれぞれの人格は相互に独立して「無関係」であること、人格の一つ「ぼく」が語るとき、その他の人格である「彼ら」は存在できないこと、が書かれている。まさに澤田の考えている人格間の移行可能性に関するものだ。

一方、1行目はどうか。人格の一つであるはずの「ぼく」が「いくつもの魂」をもっていると書かれている。そう、ペソアはここで、一つの身体内における人格の潜在的複数性にとどまらず、一つの人格内における劇場性をも告白していたのだ。

 

従って、上記の詩の直前に置かれた以下の詩は、まさに一つの人格内における劇場性をこそ示していると解釈すべきである。

ぼくらのなかには 無数のものが生きている

自分が思い 感じるとき ぼくにはわからない

感じ 思っているのが誰なのか

自分とは 感覚や思念の

劇場にすぎない

 

 

このようなペソア的人格は、自己のあり方が未完成であり続けることを不可避とするが故、ペソア的人格の産出するテクストも常に未完成の断章という形式を取らざるをえないし、自らが立てた計画のほとんども頓挫に終わることは自然の成り行きだろう。

裏から言えば、ペソアが詩集としてまとめ、完成品を世に問うというのは、ペソアという一人の人間=身体における、ペソア的人格概念と、一般的な意味での人格概念との相克の表れなのである。

 

ペソアのいう通り、「詩人はふりをするものだ」。"ふり"とは、ある人格を持つ人が、他の人格になりすますこと。だから必然的に、近代の詩人は人格概念から逃れられない(もちろん、非人間なものに人格を吹き込むことはできる*3が、その場合とて人格の論理に回収することは変わらない)。人格という概念は、この現実世界に生きる我々の言語では容易には逃れ難い。

だからこそ、特定の人格という視点に縛られた言葉としてではなく、パフォーマティブな実存的企てとして、人間ペソアが批評されることを待っている。その批評は、ペソアが拒否した精神分析のように真の人格の探究に進むのではなく、非人格化(=劇場化)の道を照らすべきであるべきように思われる。

 

今や、本書冒頭で掲げられたペソアの詩を、我々はよりよく受け止めることができる。

なにものかであることは牢獄だ

自分であることは 存在しないこと

逃げながら わたしは生きるだろう

より生き生きと ほんとうに

 

*1:人格を団体的なものとみなす見解について、法学徒はすぐさま安藤馨「団体が、そして団体のみが」(安藤・大屋『法哲学法哲学の対話』)との相違を考えずにはいられないが、ここではおいておく。

*2:鈴木『教養としての認知科学』(東京大学出版会, 2016)で示されていた、意識の複数競合モデルのような理解と通じるものがあるように思われる。

*3:我々はここで大森荘蔵の「吹き込み」説を思い出す。

会話か、文学か--『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』とリベラリズム

水域近くの灯台

 

澤田直『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』人文書院(2002)は、サルトルのモラル論に関する、我が国随一の研究であると思われる。未完の設計図の断片を頼りに、巨匠サルトル自身すら思い至らなかったその思想の核心を剔抉し、幻の楼閣を現代に再現した。今なお色褪せない、冒険の書である。

 

全編通して魅力的な研究が展開される中にあって、本稿は以下の註(注:強調・下線は当方)の最終行のみを検討する。この註こそ、サルトルのモラル論の魅力と矛盾を凝縮している。

共同体と公共性はともに多義的な概念であるが、齋藤純一の明快な解説を援用すれば、以下のようになろう。「共同体が閉じた領域をつくるのに対して、公共性は誰もがアクセスしうる空間である。〔・・・〕第二に、公共性は、共同体のように等質な価値に充たされた空間ではない。〔・・・〕公共性の条件は、人びとのいだく価値が互いに異質なものであるということである。公共性は、複数の価値や意見の<間>に生成する空間であり、逆にそうした<間>が失われるところに公共性は成立しない。第三に、〔・・・〕公共性のコミュニケーションは〔・・・〕共通の関心事をめぐって行われる。〔・・・〕最後に、アイデンティティ(同一性)の空間ではない公共性は、共同体のように一元的・排他的な帰属を求めない」・・・ここで挙げられている公共性の特徴は、私たちがこれまで見てきたサルトルの文学空間の理想とある程度まで合致しているように見える。

 

「ある程度まで合致」と言うとき、では、合致していない部分はどこか?公共性にあり、サルトルの理想的文学空間にないものは何か?

 

それは「共通の関心事」の存在である。ここではさらに一歩踏み込んで、「共通の関心事」=「正義の概念」としておこう。

本稿は、サルトルの議論に潜む限界を指摘するとともに、井上達夫リベラリズムが、つまり正義の概念を中心とする「会話としての正義」の構想こそが、サルトルのモラル論を乗り越える思想であることを明らかにする。

 

*****

なぜ、サルトルのモラル論は「正義の概念」を論証に招き入れなかったのか。それは、人間の自由を強調するあまり、規範一般を単純に放擲してしまったためである。

 

サルトルのモラル論の出発点は、実存=人間的現実の、存在論的構造における自由である。この自由を否定する概念は全て、実存にとって非本来的なものと、サルトルは評価してしまう。

規範は全て、その究極的な無根拠性ゆえに、存在しないものとされる。命法的な規範は全て一人称の語りに還元され、普遍性を剥ぎ取られる。

おそらく、規範的倫理学が成立するためには、個別と普遍との間に一定の図式が想定される必要がある。・・・ところが、人間的現実を、いかなる上位の類概念にも属さず、その本質の定義すら不可能な自由として捉えるサルトル思想においては、個と普遍との前述の図式は完全に崩れてしまっている。・・・それゆえ『存在と無』に立脚する限り倫理は超越的同一性なき倫理として、三つのアポリアに逢着せざるをえない。それは、第一には、何が倫理的規範を根拠づけるのかという<無根拠性>であり、第二には、いかにして独自の発話が普遍的なものとなりうるのかという<普遍性の欠如>であり、第三には、根拠も普遍性もない場合、真理の伝達はどのように可能なのか、という<伝達不可能性>のアポリアである。(澤田直『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』人文書院(2002)63-64頁)

 

こうしてサルトルに残された問いは、要約すれば「実存同士が自由なまま、お互いの自由を承認しあったままでコミュニケーションするためにはどうしたら良いのか?」であり、その答えが形式としての<文学>なのであった。

作者・作品・読者の三項関係の中で、一人称の主観が読まれることを通して<間主観性>の地平へと横滑りすることにこそ、人間同士が自由を保ったままで普遍性・客観性に辿り着くことの可能性がある、と。

なぜ「読むこと」が問題なのか。サルトルならば、それは読むことがなによりも、独我論から脱出する道であり、<同一者>への原初的な亀裂を入れる行為だからだ、と答えるだろう。・・・そのフロベール論ではサルトルは・・・次のように書いていたのだった。

本を閉じてしまえば、われわれは自分の好きなことができる。しかし、読んでいる間は、われわれは自分の可能性を剥ぎ取られ、われわれに不動の可能性を押し付ける登場人物の体の中に裸で入り込まねばならない。

(澤田直『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』人文書院(2002)34頁)

 

しかし、ここに一つの矛盾がある。「登場人物」とは誰か?「作者」とは誰か?

作品における(一人称の)語り手は、もはや実存から乖離した一つの抽象的存在であるはずだ。文学の語りと解釈を通して、主観を<間主観性>の地平に滑らせ、普遍性・客観性に到達できるのだとするとき、超越的概念の有用性を裏から導入してしまってはいないだろうか。それは文学に限らず、むしろ超越者・超越的概念を措定し解釈する、より一般的な規範的議論の成立を認めることにならないか?

 

前述した通り、サルトルの実存哲学は個の実存を極限まで認め、実存をそこに帰属させ回収するようなあらゆる上位の規範の存在とその根拠を否定するものであった。

しかし、実存哲学と規範倫理学は両立可能である。サルトルの議論が袋小路に嵌ったのは、規範概念の存在可能性と、その究極的な証明可能性を混同したからである。

正義の概念をあらかじめ打ち立てること・究極的にその内実を確定/証明することはできないが、正義の概念自体の存在を認め、そのあるべき定義をめぐって議論を戦わせることは、サルトルにとっても可能だったはずだ。

 

サルトルは、たらいの水を捨てんとして赤子をも流してしまった。そのモラル論はしたがって、個人の存在論的自由と一切抵触しない、同意論の一種に終始してしまった印象を受ける。

 

*****

ではサルトルの「文学としてのモラル」論に超越的規範を、「正義の概念」を導入することはできるのか。実は、その挑戦こそが井上達夫『共生の作法』(初版1986, 増補新装版2021)第5章で展開された「会話としての正義」である。以下、確認しよう。

 

まず、サルトルが「文学」と「会話」を対置したにも関わらず、サルトルの「文学」と井上の「会話」概念は驚くほど近い。独立した自由な個人同士の双方向の言語のやりとりを、サルトルが「文学」と呼ぶ代わりに、井上は「会話」と呼ぶ。

会話とは異質な諸個人が異質性を保持しながら結合する基本的な形式である。・・・

会話的結合が互いに相手を客体としてではなく、語りかけられ、聞かれ、答えかえさるべき人格として承認し合うことにある以上、それは次の二つの場合において決定的に解消される。第一に、会話が相互性を喪失するとき、第二、会話の相手の独立性が否認されるときである。(井上達夫『増補新装版 共生の作法』勁草書房(2021) 254, 256頁)

 

加えて、「文学」と「会話」は、それぞれの位置価についても相似形を成している。サルトルは「伝達」に対抗するものとして「文学」を、井上は「コミューニケイション」に対抗するものとして「会話」を位置付けるが、その眼目は極めて近い。

例えば、「文学」も「会話」も、目的は情報の伝達ではなく、交流であり、そのような結合の持続である。

・・・注目すべきは、呼びかけにおいては、提案された目的の内容が重要なのではなく、提案する行為自体に力点が置かれていることである。・・・サルトルの構想するコミュニケーションとしての文学がメッセージの伝達ではなく、交流を重視するものであることは見てとれよう。(澤田直『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』人文書院(2002)98頁)

しかし、会話はコミューニケイションではない。・・・即ち、コミューニケイションは遂行されるが、会話は遂行されない。会話は営まれるのである。コミューニケイションの成就はあっても、会話の成就はあり得ない。会話はただ終わるのみである。・・・強いて会話の目的なるものを挙げるとすれば、会話自体を続けることである。(井上達夫『増補新装版 共生の作法』勁草書房(2021) 250-251頁)

 

また、「文学」も「会話」も、反対項に意識されるのは「同質性に根ざした共同体における、閉鎖的なコミュニケーション」である。結果として、「文学」「会話」はどちらも、同質性に依拠しないオープンな言語的やりとり、ということになる。

共同体という私たちの問題設定からパラフレーズし直せば、通常の言語(つまり共同体)のパロールのコミュニケーションから文学的なエクリチュールのコミュニケーションへの移行として捉えられるだろう。(澤田直『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』人文書院(2002)223頁)

コミューニケイションや言語行為を媒介とする人間の結合体、即ち・・・儀式共同体は、共通了解の達成やゲームの遂行など一定の共通目的によって統合されている以上・・・成員の高度の同質性を前提しており、身内と余所者を分かつ論理によって貫徹されている。その濃密な了解的・習律的諸前提を共有しない者や、共有していても、期待されているコミューニケイション行動や言語ゲーム的儀式行為を効率的に遂行し得る能力のない者は排除される。・・・

コミューニケイション的共同性や言語ゲーム的共同性がこのような閉鎖性を免れないのに対し、会話は形式的・目的独立的であるというまさにそのことによって、開放的である。(井上達夫『増補新装版 共生の作法』勁草書房(2021) 252-253頁)

 

このように、サルトルと井上は、前-人間的な神や、人間一般を定義づけるような絶対的な規範なき近代において、自由な実存同士の結合可能な様式として、ほとんど同じものを構想しているのである。

 

ではこの時、サルトルのモラル論に「正義の概念」を導入することは可能か?

可能である。規範理念の普遍化可能性について、他者との言語的交流=プロセスの中にその実現を見る点で、両者の戦略は極めて近接するからである。次の二つの記述は、両者がいかに似たプロジェクトを遂行せんとしているかを示して余りある。

道徳的規範もあらかじめある規範との一致ではなく、他者の検証へと委ねられるひとつの提案でしかない。そのかぎりで、呼びかけは普遍性・・・の名における呼びかけではなく、他者の承認によって普遍性を付与されるのをまつ普遍化可能なもの・・・でしかない。(澤田直『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』人文書院(2002)95頁)

正義・・・のような論争的な「理念」は、彼が想定するように「正解」としてどこか永遠の世界に待機しているのではない。それはむしろ、「問い」として我々の前に突きつけられているのである。正義の理念にコミットするということは、・・・この問いを問い続け、解答を異にしながらも同じ問いを問う他者との緊張を孕んだ対話を生き抜こうとする決意である。(井上達夫『増補新装版 共生の作法』勁草書房(2021) 24頁)

 

「モラルの不可能性こそがモラルを要請」(サルトル)しており、「問いを真正の問いとして認めるからこそ、その正解の存在を想定せざるを得ない」(井上)のである。

 

こうして井上は、個人の自由を基点とする「会話」的結合にあって、正義の概念を導入し、諸正義構想の競争的共存の場を現出させることに見事に成功する。

井上の「会話」は、リベラリズム的結合様式として、サルトルの「文学」を超えるモラルを提示したと、本稿は評価する。

 

*****

以上の通り、共生の作法を解く倫理思想としては、サルトルのモラル論よりも井上の「会話としての正義」に軍配が上がるだろう。

では翻って、サルトルの議論が井上に与える示唆にはいかなるものがあろうか。最後に二つの仮説を提起して、本稿を閉じることとしたい。

 

一つは、井上の議論における「正義の概念」こそ、サルトルのモラル論における「文学作品」の機能的代替物ではないか、という仮説である。サルトルが「作者・文学作品・読者」の三項関係のコミュニケーションによってまなざしの地獄を抜けたように、井上は「個人A・正義概念・個人B」の三項関係の対話へと、二者関係をスライドさせていると言えないか。

あえて言えば、「会話」と「対話」を使い分け、二者関係を「会話」と呼び、正義概念をめぐる三項関係を「対話」と呼ぶとすると、井上が本当に構想したのは、実は「"対話"としての正義」だったのかもしれない。

 

今一つの私見は、「会話」に回収され切らない「文学」の可能性についてである。

「文学」の真の価値は、<いま・ここ>にいないものへの<呼びかけ>の可能性といえまいか。会話は、その魅力ゆえ、一回性をもち、音とともに消えてゆく。しかし、文学は消えない。

『他者への自由』で井上がレヴィナスを引きながら、<ここ>にいないものを含み得ないレヴィナスの<顔>概念を批判したように、井上の「会話」は<いま>いないものとの相互交流の可能性に閉ざされた概念であるとして、全く同型に批判可能ではないか。サルトルの「文芸の共和国」には、未だ汲み尽くせぬ、超時代的可能性が残されていると言えるかもしれない。

例えば、本稿が描き出そうとしたサルトル=井上間の議論は、呼びかけと応答としての「文学」と呼ぶべきものではないか。文字に残し、解釈に委ねることの恵みは「文学」の中にこそ花開く。プルーストの一節こそ、本稿では汲み尽くせなかった文学の更なる可能性を指し示している。

読者は会話と反対に・・・孤独のなかにある知性の力、会話のなかではたちどころに散らされてしまう知性の力をもちつづけながら、・・・精神が己自身に向かって実り豊かな働きをつづけている最中に、他の一つの思想からコミュニケーションを受けるということなのである。(澤田直『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』人文書院(2002)28頁)

 

 

井上達夫実存主義批判にも関わらず、井上とサルトルの距離は近い。

それは、まなざしの客体としての他者ではなく、不透明で人格を持つ一人の実存としての他者とどう共に生きるかという、リベラリズムの問いを共有しているからである。

そのリベラリズムの問いは、他者とともに生きるという、人類最大の冒険に捧げられた<呼びかけ>なのである。

 

一人の少年が私のそばで立ち止まり、恍惚とした表情でつぶやいた、「ああ!灯台だ!」

そのとき私は自分の心が大いなる冒険の感情で膨れあがるのを感じた。(サルトル(鈴木道彦訳)『嘔吐 [新訳]』人文書院(2010)92頁)

 

 

法のまなざし、実存の叫び --サルトル実存哲学の法学的解釈・試論--

サルトルの実存哲学からは、アナーキーな香りがする。

現実=国家による統治と、それはいかにして接続可能か。

 

サルトルの実存哲学は、主体的な強い個人を主人公としている。が、その実存の根っこには「不安」がある。そしてその実存的不安は、他者との共生・交流を通してしか乗り越え得ない。サルトル初期の筆はとうに自白している。

初めて私は、独りきりでいるのが心配になった。手遅れにならないうちに、子供たちに恐怖感を与えないうちに、自分の身に起こったことを誰かに話したい。アニーがいてくれればよいのだが。(サルトル『嘔吐[新訳]』人文書院(2010)19-20頁)

 

もちろん、この実存的不安を紛らわす方法は他にもある。ロカンタンにとってそれはレコードを聞くことであったし、連続殺人事件の犯人N・N少年にとっては映画がそうであった。無意味・無目的な生の持続から逃避する、有限な冒険的時間がそれである。しかしもちろん、そのような冒険的時間はあくまで現実逃避でしかない。冒険的時間の「死」=終わりが一層の欠落感を持って実存に襲いかかってくることは、見田宗介が鋭く指摘した通りである。

覗くこと。夢見ること。魂を遊離させること。それはなるほど、出口のない現実からの「逃避」であるかもしれないけれども、同時にそれは、少なくとも自己を一つの欠如として意識させるもの、現実を一つの欠如として開示するものである。(見田宗介『まなざしの地獄』河出書房新社(2008)14頁)

 

かくして実存主義者は、実存的不安を乗り越えるための必然として、「他者」のいる世界に足を踏み出す。しかしながら、「他者」のいる世界とは、「他者」のまなざしに晒される世界であり、自己の主体性の発揮が必ず挫折させられる世界なのである。

目差しとは顔の中の貴族である。何故なら、それは世界を遠く離れたところから支配し、事物をそれがある当の場所に於て徴集(知覚)するからだ。(サルトル実存主義とは何か』人文書院(1955)130頁)

 

「他者」のまなざしは、自己を実存としてありのままに承認する可能性に欠けている。そこに現れる対他存在は、必ず自己の一面を切り取った本質主義的解釈であり、対自存在との間に裂け目が生まれざるを得ない。ここに、脆き実存主義者のアポリアがある。自己の世界に留まり内部から蝕まれるか、それとも「他者」の世界に飛び込み挫折するか。後者の苦しみの当事者こそ、見田宗介が活写した、出自に由来する差別にぶち当たったN・Nであった。

人の現在と未来とを呪縛するのは、この過去を本人の「現在」として、また本人の「未来」として、執拗にその本人にさしむける他者たちのまなざしであり、他者たちの実践である。(見田宗介『まなざしの地獄』河出書房新社(2008)38頁)

 

ここに至り、実存主義者は国家を要請する一つの契機をもつ。樋口憲法学が定式化した通り、近代国家の役割は「国家による・社会からの・個人の自由」(蟻川・木庭・樋口『憲法の土壌を培養する』日本評論者(2022)33頁)を確保することである。不当な差別を禁止し、実存=主体性が十全に発揮される環境を、法は整えることができる。

 

ただし、国家の登場は実存主義者を救済しない。それどころか、ますます苦難の道へと追いやる危険性すら孕んでいる。「他者」同様、国家もまなざしを持つからだ。しかも国家のまなざしは、自己を実存として承認することについて、その可能性はおろか、正当性まで喪失している。なぜなら、法の理念たる正義は、個体的同一性による正当化を禁じ、普遍化不可能な差別の排除を目指す理念であるから。

そう、正義の女神ディケーは目隠しをしている(井上達夫『増補新装版 共生の作法』勁草書房(2021)133頁)。そして厄介なことに、その目隠しは非常に薄い。ディケーに見えないのは、一人ひとりの具体的な<顔>だけである。鼻の形も、肌の色も、出自も経歴も、その人を構成する個別の要素は視認でき、ディケーの判断に取り込まれる。ロールズの無知のヴェイル概念に対する批判も、まさしくこの「目隠しの薄さ」に焦点の一つがある。

無知のヴェイルは、個人に関する特殊情報を一切排除する点で「たらいの水と一緒に赤子を流す」誤謬を犯している。ある正義構想のある社会に対する妥当性を評価する上で、その社会を構成する諸個人の所属性に関する特殊情報はレレヴァントな情報であり、排除さるべきイレレヴァントな情報は「どの個人が自分であるか」である。(井上達夫『法という企て』東京大学出版会(2003)240頁)

 

ディケー=法は、確かに正義を志向し、実存主義者の心を蝕む苛烈なまなざしを緩和・修正する強い力を持つだろう。その意味で実存主義者にはディケーを歓待する理由が一見ないわけではない。しかし上述した通り、法のまなざしこそは、実存主義者の天敵たる本質主義的なまなざしなのである。法を無条件に歓待し、法にその人生を委ねる時、実存主義者は哲学的死を迎えることになる。

 

法なくば実存を全うできず、法に頼れば実存主義者を全うできない。果たしてこの陥穽を抜け、実存の主体性を回復する理路は存在するのか。

 

ある。<まなざす-まなざされる>関係を飛び越えた、<声をあげる-声をきく>関係こそがそれである。我々は、苦しい時、追い詰められた時、目で探すでもなく、耳で待つでもなく、自分の口で声をあげることができる。力いっぱい叫ぶことできる。これこそが、主体性への道、自由への道である。

ディケーには、判断する目、宣言する口に加えて、寄り添う耳がある。立憲主義国家にとって、この耳に覆いがないことが、ディケーの宣言に従う正統性の源となる。

ここにあるのは、実存の暗闇を抜けた、闘争的な理の統治である。

 

サルトルは前述の通り、目に特権的な地位を与えた。それは故なきことではない。しかし我々は今やこうも言える。実存主義者にとって、目と口は共に不可欠な人間の条件である。目が顔の中の貴族であるとすれば、口は市民=主権者である。

口は目以上にものをいう。

 

 

本稿は、見田宗介『まなざしの地獄』を頼りに、サルトルの実存哲学を法学の枠組みに回収せんするものである。

もちろん、本稿はこれで完結せず、むしろ更なる問いを触発する。

例えば、実存主義者にとって遵法義務の根拠は何か。仮に「人間の実存を守るための法には従う」とするとき、そこには「何が人間の実存として守られるべきか」という正義の議論、人間の本質をめぐる問いが姿を現す。この問いに正面から向き合おうとすれば、実存主義者ではいられないかもしれない。

また、上記問いを首尾よく処理したとして、その思想には、「理性による自己統治=積極的自由」の観念や、「諸目的の国」の理念に汲み尽くされない、それ以上の価値が何かあるだろうか。

そもそも、実存主義にとって「理性」や「意志」といった概念装置は何か意味をなすのだろうか。法との間に共通言語が存在するのかどうかも怪しくなってくる。

 

多くの要素がこぼれ落ちてしまっていると思われるが、読者の皆様の<声>に耳を傾けたい。