正義を論じることはできるか –メタ正義論の基本的な論争図式–


"究極的な正義"を志向して有意義な議論をすることは可能か。この問いに肯定的に答える理路は、概ね以下のようになるだろう。

 

正義の実在(もしくは実在の不在)を主張する場合、その実在に絶対確実の客観性が伴うものとして主張することはできない。なぜなら、「ある」も「ない」も、一つの信念・命題として意識され把握される限り、必ず「と私は考える」の形に回収することが可能だからである。従って、絶対確実の客観性をともなった正義の実在論(正義は絶対確実に存在する)や非実在論(正義は絶対確実に存在しない)など、実在に関する積極的な主張は全て未達に終わる運命にある。このような相対主義の洞察は、まずは正しい。ただし、その上で、そのような絶対確実な実在については、<私たち>人間が認識したり言語化したりすることはできないものの、その存在の可能性までをも原理的に否定できる訳ではない。*1

 

相対主義の洞察をスタート地点にしてもなお、正義の実在を主張することは可能であるばかりか、より優れた選択肢と言いうる。有力な応答は主に以下の通りである。

①正義の信念が「と私は考える」の形に回収可能であることを理由に、その実在を否定(※不在の肯定ではない)する場合、そのような相対主義的懐疑は、正義の信念に限らずおよそ知覚される全てのものに適用されなければならない。しかし、「すべてが恣意的であるならばなにかをことさらに恣意的だと言い立てることはまったくの無駄である。」*2

相対主義的懐疑は、全てのものの実在的地位を一律に否定してしまうが、全ての実在の確からしさが全く横並びであると考えることはおよそ不当である。相対主義の言うように実在の定義を絶対確実の客観的なものとするのは「あまりに高い要求水準を人間の知に課している」*3に過ぎず、客観的実在をあくまで可謬的・改訂主義なものと捉えることが、グラデーション的に実在する正義の確からしさについて有意義な議論のために不可欠であるし、また実際の人間が遂行するありよう(例えば科学など)を示していると考えることができる。

③我々の信念が世界についてなんらかの適合や予測に成功しているのは、「世界がまさにわれわれの認識が捉えるようなあり方をしている」*4からである。実在を想定しない立場(非実在論、相対主義)は奇跡論法に頼る必要があり、実在論の方が理論的負荷が小さいことから、実在論の立場がこの時点ではより有力であると言える。

 

ただし、それぞれについては以下のような再反論が提起されうる。

①について:相対主義はその性質上、実在論に対して非対称的な立場として現れる*5。①の議論は、「相対主義者」への有力な反論にはなっても、相対主義そのものへの反論としての射程は思ったよりも広くない可能性がある。

②について:正義に関する有意義な議論のために正義の実在を想定することが不可欠かどうかは必ずしも自明ではない。少なくとも、井上達夫のように相対主義と独断主義を等置してしまうこと*6は(実践的にはさておき理論的には)正当ではない可能性が高い。*7

③について:これは科学的実在論における議論と同型であるが、道徳的知識が何に対して適合・予測が可能であるのか、検討が必要である。快楽説的功利主義など一部の帰結主義を除き、道徳により適合・予測が可能なのはあくまで「我々がどのような道徳的判断をするか」にすぎない可能性がある。*8

 

上記の議論にはここでは深入りしないこととする。その上で、仮に正義(より広く言えば道徳)の実在を有意義に一旦は認めることができたとして、メタ倫理学的に明らかにすべき立場がもう一山ある。それが「当為判断のトリレンマにいかに答えるか」である。トリレンマによれば、以下の3つの立場は両立不可能である。

1.当為判断の認知主義:当為判断は認知的判断である。

2.当為判断の動機付け内在主義:当為判断には必然的に、それに対応した動機付けが伴う。

3.動機付けのヒューム主義:認知的判断そのものは動機付けを伴わない。

 

トリレンマ解決についてはさまざまな提案がなされてきたが、最も思いつきやすいものは、「当為判断の認知主義(1)を否定する」もしくは「動機付け内在主義(2)を否定する」の二つが挙げられるだろう。*9

 

このように議論を追っていくと、自ずと、

存在論の観点からは改訂主義的な道徳実在論をとり、

・トリレンマ解決の観点からは動機づけの外在主義をとる、

というのが、メタ倫理学的に一貫した有望な主張の一つであることが自ずと明らかになってくると思われる。(もちろん、実在論をとる以上はどのような意味で実在するかを明らかにする必要があるが、少なくとも自然主義は主張②③に親和的であろうことは想像に難くない。また、非認知主義をとる道もあるだろうが、私にはまだそこまで検討する力がないため、ここではおく。)

 

正義を論じる者はおそらく、法のあるべき姿を探求する者と概ね一致するだろう。法の理論としてどのような立場が最も魅力的であるか、これこそまさに探求されるべき問いであるが、どのような立場に立とうとも、少なくともこれまでの議論図式の中で検討され、例えば功利主義のような一見して一貫性の高そうな立場に比べ、法理論としての魅力だけでなく、メタ倫理学的にどれほどの強靭性を持つか、篩にかけられずにはいられないだろう。

ここが、正義を論じる入り口である。

 

*1:参照、入不二基義相対主義の極北』(春秋社, 2001)186頁

*2:安藤馨・大屋雄裕法哲学法哲学の対話』(有斐閣, 2017)p235(安藤応答)

*3:井上達夫『増補新装版 共生の作法』(勁草書房, 2021)15頁

*4:植原亮『実在論と知識の自然化』(勁草書房, 2013)4頁

*5:参照、入不二・前掲注1)86頁など

*6:参照、井上・前掲注3

*7:大屋雄裕『法解釈の言語哲学』(参照、勁草書房, 2006)125-126頁、191頁

*8:蝶名林亮『倫理学は科学になれるのか』(勁草書房, 2016)176頁

*9:そしてまさに安藤馨は井上達夫に対しどちらを選ぶのか、と問うている。参照、瀧川・大屋・谷口編『逞しきリベラリストとその批判者たち』(ナカニシヤ出版, 2015)27頁