法のまなざし、実存の叫び --サルトル実存哲学の法学的解釈・試論--

サルトルの実存哲学からは、アナーキーな香りがする。

現実=国家による統治と、それはいかにして接続可能か。

 

サルトルの実存哲学は、主体的な強い個人を主人公としている。が、その実存の根っこには「不安」がある。そしてその実存的不安は、他者との共生・交流を通してしか乗り越え得ない。サルトル初期の筆はとうに自白している。

初めて私は、独りきりでいるのが心配になった。手遅れにならないうちに、子供たちに恐怖感を与えないうちに、自分の身に起こったことを誰かに話したい。アニーがいてくれればよいのだが。(サルトル『嘔吐[新訳]』人文書院(2010)19-20頁)

 

もちろん、この実存的不安を紛らわす方法は他にもある。ロカンタンにとってそれはレコードを聞くことであったし、連続殺人事件の犯人N・N少年にとっては映画がそうであった。無意味・無目的な生の持続から逃避する、有限な冒険的時間がそれである。しかしもちろん、そのような冒険的時間はあくまで現実逃避でしかない。冒険的時間の「死」=終わりが一層の欠落感を持って実存に襲いかかってくることは、見田宗介が鋭く指摘した通りである。

覗くこと。夢見ること。魂を遊離させること。それはなるほど、出口のない現実からの「逃避」であるかもしれないけれども、同時にそれは、少なくとも自己を一つの欠如として意識させるもの、現実を一つの欠如として開示するものである。(見田宗介『まなざしの地獄』河出書房新社(2008)14頁)

 

かくして実存主義者は、実存的不安を乗り越えるための必然として、「他者」のいる世界に足を踏み出す。しかしながら、「他者」のいる世界とは、「他者」のまなざしに晒される世界であり、自己の主体性の発揮が必ず挫折させられる世界なのである。

目差しとは顔の中の貴族である。何故なら、それは世界を遠く離れたところから支配し、事物をそれがある当の場所に於て徴集(知覚)するからだ。(サルトル実存主義とは何か』人文書院(1955)130頁)

 

「他者」のまなざしは、自己を実存としてありのままに承認する可能性に欠けている。そこに現れる対他存在は、必ず自己の一面を切り取った本質主義的解釈であり、対自存在との間に裂け目が生まれざるを得ない。ここに、脆き実存主義者のアポリアがある。自己の世界に留まり内部から蝕まれるか、それとも「他者」の世界に飛び込み挫折するか。後者の苦しみの当事者こそ、見田宗介が活写した、出自に由来する差別にぶち当たったN・Nであった。

人の現在と未来とを呪縛するのは、この過去を本人の「現在」として、また本人の「未来」として、執拗にその本人にさしむける他者たちのまなざしであり、他者たちの実践である。(見田宗介『まなざしの地獄』河出書房新社(2008)38頁)

 

ここに至り、実存主義者は国家を要請する一つの契機をもつ。樋口憲法学が定式化した通り、近代国家の役割は「国家による・社会からの・個人の自由」(蟻川・木庭・樋口『憲法の土壌を培養する』日本評論者(2022)33頁)を確保することである。不当な差別を禁止し、実存=主体性が十全に発揮される環境を、法は整えることができる。

 

ただし、国家の登場は実存主義者を救済しない。それどころか、ますます苦難の道へと追いやる危険性すら孕んでいる。「他者」同様、国家もまなざしを持つからだ。しかも国家のまなざしは、自己を実存として承認することについて、その可能性はおろか、正当性まで喪失している。なぜなら、法の理念たる正義は、個体的同一性による正当化を禁じ、普遍化不可能な差別の排除を目指す理念であるから。

そう、正義の女神ディケーは目隠しをしている(井上達夫『増補新装版 共生の作法』勁草書房(2021)133頁)。そして厄介なことに、その目隠しは非常に薄い。ディケーに見えないのは、一人ひとりの具体的な<顔>だけである。鼻の形も、肌の色も、出自も経歴も、その人を構成する個別の要素は視認でき、ディケーの判断に取り込まれる。ロールズの無知のヴェイル概念に対する批判も、まさしくこの「目隠しの薄さ」に焦点の一つがある。

無知のヴェイルは、個人に関する特殊情報を一切排除する点で「たらいの水と一緒に赤子を流す」誤謬を犯している。ある正義構想のある社会に対する妥当性を評価する上で、その社会を構成する諸個人の所属性に関する特殊情報はレレヴァントな情報であり、排除さるべきイレレヴァントな情報は「どの個人が自分であるか」である。(井上達夫『法という企て』東京大学出版会(2003)240頁)

 

ディケー=法は、確かに正義を志向し、実存主義者の心を蝕む苛烈なまなざしを緩和・修正する強い力を持つだろう。その意味で実存主義者にはディケーを歓待する理由が一見ないわけではない。しかし上述した通り、法のまなざしこそは、実存主義者の天敵たる本質主義的なまなざしなのである。法を無条件に歓待し、法にその人生を委ねる時、実存主義者は哲学的死を迎えることになる。

 

法なくば実存を全うできず、法に頼れば実存主義者を全うできない。果たしてこの陥穽を抜け、実存の主体性を回復する理路は存在するのか。

 

ある。<まなざす-まなざされる>関係を飛び越えた、<声をあげる-声をきく>関係こそがそれである。我々は、苦しい時、追い詰められた時、目で探すでもなく、耳で待つでもなく、自分の口で声をあげることができる。力いっぱい叫ぶことできる。これこそが、主体性への道、自由への道である。

ディケーには、判断する目、宣言する口に加えて、寄り添う耳がある。立憲主義国家にとって、この耳に覆いがないことが、ディケーの宣言に従う正統性の源となる。

ここにあるのは、実存の暗闇を抜けた、闘争的な理の統治である。

 

サルトルは前述の通り、目に特権的な地位を与えた。それは故なきことではない。しかし我々は今やこうも言える。実存主義者にとって、目と口は共に不可欠な人間の条件である。目が顔の中の貴族であるとすれば、口は市民=主権者である。

口は目以上にものをいう。

 

 

本稿は、見田宗介『まなざしの地獄』を頼りに、サルトルの実存哲学を法学の枠組みに回収せんするものである。

もちろん、本稿はこれで完結せず、むしろ更なる問いを触発する。

例えば、実存主義者にとって遵法義務の根拠は何か。仮に「人間の実存を守るための法には従う」とするとき、そこには「何が人間の実存として守られるべきか」という正義の議論、人間の本質をめぐる問いが姿を現す。この問いに正面から向き合おうとすれば、実存主義者ではいられないかもしれない。

また、上記問いを首尾よく処理したとして、その思想には、「理性による自己統治=積極的自由」の観念や、「諸目的の国」の理念に汲み尽くされない、それ以上の価値が何かあるだろうか。

そもそも、実存主義にとって「理性」や「意志」といった概念装置は何か意味をなすのだろうか。法との間に共通言語が存在するのかどうかも怪しくなってくる。

 

多くの要素がこぼれ落ちてしまっていると思われるが、読者の皆様の<声>に耳を傾けたい。