会話か、文学か--『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』とリベラリズム

水域近くの灯台

 

澤田直『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』人文書院(2002)は、サルトルのモラル論に関する、我が国随一の研究であると思われる。未完の設計図の断片を頼りに、巨匠サルトル自身すら思い至らなかったその思想の核心を剔抉し、幻の楼閣を現代に再現した。今なお色褪せない、冒険の書である。

 

全編通して魅力的な研究が展開される中にあって、本稿は以下の註(注:強調・下線は当方)の最終行のみを検討する。この註こそ、サルトルのモラル論の魅力と矛盾を凝縮している。

共同体と公共性はともに多義的な概念であるが、齋藤純一の明快な解説を援用すれば、以下のようになろう。「共同体が閉じた領域をつくるのに対して、公共性は誰もがアクセスしうる空間である。〔・・・〕第二に、公共性は、共同体のように等質な価値に充たされた空間ではない。〔・・・〕公共性の条件は、人びとのいだく価値が互いに異質なものであるということである。公共性は、複数の価値や意見の<間>に生成する空間であり、逆にそうした<間>が失われるところに公共性は成立しない。第三に、〔・・・〕公共性のコミュニケーションは〔・・・〕共通の関心事をめぐって行われる。〔・・・〕最後に、アイデンティティ(同一性)の空間ではない公共性は、共同体のように一元的・排他的な帰属を求めない」・・・ここで挙げられている公共性の特徴は、私たちがこれまで見てきたサルトルの文学空間の理想とある程度まで合致しているように見える。

 

「ある程度まで合致」と言うとき、では、合致していない部分はどこか?公共性にあり、サルトルの理想的文学空間にないものは何か?

 

それは「共通の関心事」の存在である。ここではさらに一歩踏み込んで、「共通の関心事」=「正義の概念」としておこう。

本稿は、サルトルの議論に潜む限界を指摘するとともに、井上達夫リベラリズムが、つまり正義の概念を中心とする「会話としての正義」の構想こそが、サルトルのモラル論を乗り越える思想であることを明らかにする。

 

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なぜ、サルトルのモラル論は「正義の概念」を論証に招き入れなかったのか。それは、人間の自由を強調するあまり、規範一般を単純に放擲してしまったためである。

 

サルトルのモラル論の出発点は、実存=人間的現実の、存在論的構造における自由である。この自由を否定する概念は全て、実存にとって非本来的なものと、サルトルは評価してしまう。

規範は全て、その究極的な無根拠性ゆえに、存在しないものとされる。命法的な規範は全て一人称の語りに還元され、普遍性を剥ぎ取られる。

おそらく、規範的倫理学が成立するためには、個別と普遍との間に一定の図式が想定される必要がある。・・・ところが、人間的現実を、いかなる上位の類概念にも属さず、その本質の定義すら不可能な自由として捉えるサルトル思想においては、個と普遍との前述の図式は完全に崩れてしまっている。・・・それゆえ『存在と無』に立脚する限り倫理は超越的同一性なき倫理として、三つのアポリアに逢着せざるをえない。それは、第一には、何が倫理的規範を根拠づけるのかという<無根拠性>であり、第二には、いかにして独自の発話が普遍的なものとなりうるのかという<普遍性の欠如>であり、第三には、根拠も普遍性もない場合、真理の伝達はどのように可能なのか、という<伝達不可能性>のアポリアである。(澤田直『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』人文書院(2002)63-64頁)

 

こうしてサルトルに残された問いは、要約すれば「実存同士が自由なまま、お互いの自由を承認しあったままでコミュニケーションするためにはどうしたら良いのか?」であり、その答えが形式としての<文学>なのであった。

作者・作品・読者の三項関係の中で、一人称の主観が読まれることを通して<間主観性>の地平へと横滑りすることにこそ、人間同士が自由を保ったままで普遍性・客観性に辿り着くことの可能性がある、と。

なぜ「読むこと」が問題なのか。サルトルならば、それは読むことがなによりも、独我論から脱出する道であり、<同一者>への原初的な亀裂を入れる行為だからだ、と答えるだろう。・・・そのフロベール論ではサルトルは・・・次のように書いていたのだった。

本を閉じてしまえば、われわれは自分の好きなことができる。しかし、読んでいる間は、われわれは自分の可能性を剥ぎ取られ、われわれに不動の可能性を押し付ける登場人物の体の中に裸で入り込まねばならない。

(澤田直『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』人文書院(2002)34頁)

 

しかし、ここに一つの矛盾がある。「登場人物」とは誰か?「作者」とは誰か?

作品における(一人称の)語り手は、もはや実存から乖離した一つの抽象的存在であるはずだ。文学の語りと解釈を通して、主観を<間主観性>の地平に滑らせ、普遍性・客観性に到達できるのだとするとき、超越的概念の有用性を裏から導入してしまってはいないだろうか。それは文学に限らず、むしろ超越者・超越的概念を措定し解釈する、より一般的な規範的議論の成立を認めることにならないか?

 

前述した通り、サルトルの実存哲学は個の実存を極限まで認め、実存をそこに帰属させ回収するようなあらゆる上位の規範の存在とその根拠を否定するものであった。

しかし、実存哲学と規範倫理学は両立可能である。サルトルの議論が袋小路に嵌ったのは、規範概念の存在可能性と、その究極的な証明可能性を混同したからである。

正義の概念をあらかじめ打ち立てること・究極的にその内実を確定/証明することはできないが、正義の概念自体の存在を認め、そのあるべき定義をめぐって議論を戦わせることは、サルトルにとっても可能だったはずだ。

 

サルトルは、たらいの水を捨てんとして赤子をも流してしまった。そのモラル論はしたがって、個人の存在論的自由と一切抵触しない、同意論の一種に終始してしまった印象を受ける。

 

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ではサルトルの「文学としてのモラル」論に超越的規範を、「正義の概念」を導入することはできるのか。実は、その挑戦こそが井上達夫『共生の作法』(初版1986, 増補新装版2021)第5章で展開された「会話としての正義」である。以下、確認しよう。

 

まず、サルトルが「文学」と「会話」を対置したにも関わらず、サルトルの「文学」と井上の「会話」概念は驚くほど近い。独立した自由な個人同士の双方向の言語のやりとりを、サルトルが「文学」と呼ぶ代わりに、井上は「会話」と呼ぶ。

会話とは異質な諸個人が異質性を保持しながら結合する基本的な形式である。・・・

会話的結合が互いに相手を客体としてではなく、語りかけられ、聞かれ、答えかえさるべき人格として承認し合うことにある以上、それは次の二つの場合において決定的に解消される。第一に、会話が相互性を喪失するとき、第二、会話の相手の独立性が否認されるときである。(井上達夫『増補新装版 共生の作法』勁草書房(2021) 254, 256頁)

 

加えて、「文学」と「会話」は、それぞれの位置価についても相似形を成している。サルトルは「伝達」に対抗するものとして「文学」を、井上は「コミューニケイション」に対抗するものとして「会話」を位置付けるが、その眼目は極めて近い。

例えば、「文学」も「会話」も、目的は情報の伝達ではなく、交流であり、そのような結合の持続である。

・・・注目すべきは、呼びかけにおいては、提案された目的の内容が重要なのではなく、提案する行為自体に力点が置かれていることである。・・・サルトルの構想するコミュニケーションとしての文学がメッセージの伝達ではなく、交流を重視するものであることは見てとれよう。(澤田直『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』人文書院(2002)98頁)

しかし、会話はコミューニケイションではない。・・・即ち、コミューニケイションは遂行されるが、会話は遂行されない。会話は営まれるのである。コミューニケイションの成就はあっても、会話の成就はあり得ない。会話はただ終わるのみである。・・・強いて会話の目的なるものを挙げるとすれば、会話自体を続けることである。(井上達夫『増補新装版 共生の作法』勁草書房(2021) 250-251頁)

 

また、「文学」も「会話」も、反対項に意識されるのは「同質性に根ざした共同体における、閉鎖的なコミュニケーション」である。結果として、「文学」「会話」はどちらも、同質性に依拠しないオープンな言語的やりとり、ということになる。

共同体という私たちの問題設定からパラフレーズし直せば、通常の言語(つまり共同体)のパロールのコミュニケーションから文学的なエクリチュールのコミュニケーションへの移行として捉えられるだろう。(澤田直『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』人文書院(2002)223頁)

コミューニケイションや言語行為を媒介とする人間の結合体、即ち・・・儀式共同体は、共通了解の達成やゲームの遂行など一定の共通目的によって統合されている以上・・・成員の高度の同質性を前提しており、身内と余所者を分かつ論理によって貫徹されている。その濃密な了解的・習律的諸前提を共有しない者や、共有していても、期待されているコミューニケイション行動や言語ゲーム的儀式行為を効率的に遂行し得る能力のない者は排除される。・・・

コミューニケイション的共同性や言語ゲーム的共同性がこのような閉鎖性を免れないのに対し、会話は形式的・目的独立的であるというまさにそのことによって、開放的である。(井上達夫『増補新装版 共生の作法』勁草書房(2021) 252-253頁)

 

このように、サルトルと井上は、前-人間的な神や、人間一般を定義づけるような絶対的な規範なき近代において、自由な実存同士の結合可能な様式として、ほとんど同じものを構想しているのである。

 

ではこの時、サルトルのモラル論に「正義の概念」を導入することは可能か?

可能である。規範理念の普遍化可能性について、他者との言語的交流=プロセスの中にその実現を見る点で、両者の戦略は極めて近接するからである。次の二つの記述は、両者がいかに似たプロジェクトを遂行せんとしているかを示して余りある。

道徳的規範もあらかじめある規範との一致ではなく、他者の検証へと委ねられるひとつの提案でしかない。そのかぎりで、呼びかけは普遍性・・・の名における呼びかけではなく、他者の承認によって普遍性を付与されるのをまつ普遍化可能なもの・・・でしかない。(澤田直『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』人文書院(2002)95頁)

正義・・・のような論争的な「理念」は、彼が想定するように「正解」としてどこか永遠の世界に待機しているのではない。それはむしろ、「問い」として我々の前に突きつけられているのである。正義の理念にコミットするということは、・・・この問いを問い続け、解答を異にしながらも同じ問いを問う他者との緊張を孕んだ対話を生き抜こうとする決意である。(井上達夫『増補新装版 共生の作法』勁草書房(2021) 24頁)

 

「モラルの不可能性こそがモラルを要請」(サルトル)しており、「問いを真正の問いとして認めるからこそ、その正解の存在を想定せざるを得ない」(井上)のである。

 

こうして井上は、個人の自由を基点とする「会話」的結合にあって、正義の概念を導入し、諸正義構想の競争的共存の場を現出させることに見事に成功する。

井上の「会話」は、リベラリズム的結合様式として、サルトルの「文学」を超えるモラルを提示したと、本稿は評価する。

 

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以上の通り、共生の作法を解く倫理思想としては、サルトルのモラル論よりも井上の「会話としての正義」に軍配が上がるだろう。

では翻って、サルトルの議論が井上に与える示唆にはいかなるものがあろうか。最後に二つの仮説を提起して、本稿を閉じることとしたい。

 

一つは、井上の議論における「正義の概念」こそ、サルトルのモラル論における「文学作品」の機能的代替物ではないか、という仮説である。サルトルが「作者・文学作品・読者」の三項関係のコミュニケーションによってまなざしの地獄を抜けたように、井上は「個人A・正義概念・個人B」の三項関係の対話へと、二者関係をスライドさせていると言えないか。

あえて言えば、「会話」と「対話」を使い分け、二者関係を「会話」と呼び、正義概念をめぐる三項関係を「対話」と呼ぶとすると、井上が本当に構想したのは、実は「"対話"としての正義」だったのかもしれない。

 

今一つの私見は、「会話」に回収され切らない「文学」の可能性についてである。

「文学」の真の価値は、<いま・ここ>にいないものへの<呼びかけ>の可能性といえまいか。会話は、その魅力ゆえ、一回性をもち、音とともに消えてゆく。しかし、文学は消えない。

『他者への自由』で井上がレヴィナスを引きながら、<ここ>にいないものを含み得ないレヴィナスの<顔>概念を批判したように、井上の「会話」は<いま>いないものとの相互交流の可能性に閉ざされた概念であるとして、全く同型に批判可能ではないか。サルトルの「文芸の共和国」には、未だ汲み尽くせぬ、超時代的可能性が残されていると言えるかもしれない。

例えば、本稿が描き出そうとしたサルトル=井上間の議論は、呼びかけと応答としての「文学」と呼ぶべきものではないか。文字に残し、解釈に委ねることの恵みは「文学」の中にこそ花開く。プルーストの一節こそ、本稿では汲み尽くせなかった文学の更なる可能性を指し示している。

読者は会話と反対に・・・孤独のなかにある知性の力、会話のなかではたちどころに散らされてしまう知性の力をもちつづけながら、・・・精神が己自身に向かって実り豊かな働きをつづけている最中に、他の一つの思想からコミュニケーションを受けるということなのである。(澤田直『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』人文書院(2002)28頁)

 

 

井上達夫実存主義批判にも関わらず、井上とサルトルの距離は近い。

それは、まなざしの客体としての他者ではなく、不透明で人格を持つ一人の実存としての他者とどう共に生きるかという、リベラリズムの問いを共有しているからである。

そのリベラリズムの問いは、他者とともに生きるという、人類最大の冒険に捧げられた<呼びかけ>なのである。

 

一人の少年が私のそばで立ち止まり、恍惚とした表情でつぶやいた、「ああ!灯台だ!」

そのとき私は自分の心が大いなる冒険の感情で膨れあがるのを感じた。(サルトル(鈴木道彦訳)『嘔吐 [新訳]』人文書院(2010)92頁)