"劇場型"実存としての人間--『フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路』書評

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澤田直は、近著『フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路』にて、<異名者>というコンセプトを持つポルトガルの国民的詩人・ペソアの魅力を紹介した。

 

<異名者>とは、自分とは異なる人格、外見、来歴、文体を持った別人格の作家のことで、偽名や筆名(ペンネーム)とは異なる概念だ。ペソアによって生み出された異名者たちは、あたかも独立して実在する人間であるかのように、それぞれの人格・文体において作品を発表する。そして、異名者たちの作品は、お互いの存在に言及し、ときに雑誌の同一誌面に共存すらすることになる。

 

こうして生まれたのが、アルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスなどの異名者たちが、それぞれに詩を発表し、かつ相互に言及し合い、関係づけられる一つの劇的空間(「幕間劇の虚構」「人物によるドラマ」)だ。これこそ、フェルナンド・ペソアの極めて重要な特質である。

澤田はいう。ペソアの読者には、"異名詩人をキャストとして配した新たな詩空間をメタレベルにおいて読解することが求められている。"

 

では、「幕間劇の虚構」を、澤田はどう読解したのか。

澤田は本書で、劇場=ドラマという視座を、演劇性=擬態=模倣の視座へとスライドさせることで読み解いていく。

詩人はふりをするものだ

そのふりは完璧すぎて

ほんとうに感じている

苦痛のふりまでしてしまう

(「自己心理記述」)

 

ふりをする、つまり何者かに擬態し、模倣することを通して、対象をそのものとして経験し理解する本来的な可能性が開ける。これは、「わたしはわたし」であるという厳格な同一律のもと、自分とは異なる他者への理解可能性を排除せざるを得ないような、近代的な思考様式に対置されるものだ。ペソアの身振りは、複数性を一者へと還元することを拒否する身振りとして、つまり近代的な自我の概念へのアンチテーゼとして、位置付けられている。

 

このような澤田の読解において、<異名者>概念は、<わたし>と<あなた>の通訳不可能性を乗り越えるという意味で解釈されている。つまるところ、「私はあなたになれるのか?」という、近代的自我の同一性の問題に、換言すれば人格間の移行可能性に関する問いが中心に据えられる。

 

しかし、ペソアの読解としてこれで十分であろうか。

「<わたし>=人格とは何か?」という、人格概念そのものの転覆・構造的転換こそが、ペソアの格闘した問いではなかったか。

 

 

改めて、議論を整理しよう。ここでは、身体、人格、作者の三つの概念を分けて考えることが必要だ。

私という一人の人間がいた時、この世界に物質的な位置を占める"身体"は一つである。

次に、"人格"も多くの場合、一つの身体に一つと想定される。もちろん、一つの身体が複数の人格を持ち得る(乖離性同一性障害だったペソア自身がまさにそうだ)が、ある瞬間に同時に複数の人格でいることはできない。また、時間や場所によって人格を切り替えることは可能だが、おそらく自由自在に切り替えが可能なわけではないし、それが"人格"である限り、それぞれの人格内においては一貫した性格・態度である必要があろう。

では、"作者"はどうか。もちろん、作者はアプリオリには実在せず、テクストから再構成される存在に過ぎない。したがって、同一の身体、同一の人格から複数の作者は生まれうるし、複数のテクストが同時に存在できるが故に、複数の作者も当然同時に存在できる。複数の異名者が共存するのも、この"作者"のレベルだ。

 

しかし、そもそも作者は人格ではなく、解釈論上の参照点として後から再構成されるだけのものだから、執筆する側にとっては、"作者"が一貫した人格性を持つ必要は本来ないはずだ。澤田によれば、ペソアが異名者たちを作出した背景には、当時文学面で遅れていたポルトガルにおいて、さまざまな種類の作品を同時に手掛け、生み出す必要があったからだという。であれば、それは一人の作者名において様々に相矛盾する立場の作品を発表することでも十分に達成できる。その作者は、読者から見るとなんら一貫性のない破綻した人格に見えるかもしれないが、それが人格ではなくあくまで作者に過ぎない点で、何の問題もない。

 

ペソアはなぜ、<異名者>などという、あえて人格的な概念としての作者を作り出す必要があったのか。

 

ここに、ペソア「劇場型」実存として解釈されることを企てたとの解釈が提出される。(澤田は随所で的確にもこの可能性を示唆するが、本書では十分に汲み尽くされることがない。)

 

ペソアは人格の本質を、劇場、つまり内部での主体間の共演のようなものであると主張したかったのではないか*1。もちろんそれは、他者との交流こそが真に有徳な人間を形成するというような、人格同士の共演の話ではない。また、本書でも言及のある「分人」概念は、一つの身体内における人格間の移行可能性に関するものでしかない限りにおいて、引き続き人格概念のくびきの下にある。

ペソアの意図は、それぞれの人格が劇場的であること、つまり複数の異なる要素・方向性による競演=饗宴である*2こと、それが故に結末が予測不能であり、アプリオリな本質や結論がなく、常に現在進行形("劇場型"犯罪というときの意味はこれである!)であること、これを表現していると解釈すべきではないか。

このような意図を持ったペソアにとって、人格概念を前提とする近代の言葉は自己を表現する言葉たり得ない。例えば、人格こそがまさに「分けられないものin-dividual=個人」という単位であるとの前提のもと、近代の言語は「私I」より小さな主体を表す固有の人称代名詞をもたないことがその好例だ。しかもペソアによれば、そもそも言葉で表現すること自体が、感じていることとの間で必然的な不一致を起こす。したがって、「人格は劇場である」というテーゼは、そのまま言語化しても読者に伝わらない。

あらゆる真の感情は知性のうちでは嘘である。というのも感情が生まれるのはそこではないからだ。あらゆる真の感情はそれゆえ虚偽の表現をもっている。表現するとは、自分が感じないことを言うことである。

(「環境」)

 

だからこそペソアは、異名者という虚構的人格を最小単位にした劇的空間を作り上げ、読者の側がそれぞれの個別的属人的な言語感覚を通して、「劇的空間こそがペソアという実存である」と内的経験として観取することで初めて、劇場型実存として存在できるのである。

劇場にはゴールを決定する主体がいない。舞台があり、仮面の演者と無名の観客がいるのみ。そこに主体は、いない。

これは実存主義のありうべき一つの解釈であると言える。

 

 

このような実存主義的解釈に基づけば、本書プロローグで紹介される以下の詩の見え方も変わるだろう。

ひとつではなく いくつもの魂をぼくはもっている

ぼくではない たくさんの自分がいる

けれども 彼らとは無関係に

ぼくは存在する

彼らを黙らせ ぼくが語る

2行目から5行目は、まさに「自分」たる身体が複数の人格を持ちえること、そしてそれぞれの人格は相互に独立して「無関係」であること、人格の一つ「ぼく」が語るとき、その他の人格である「彼ら」は存在できないこと、が書かれている。まさに澤田の考えている人格間の移行可能性に関するものだ。

一方、1行目はどうか。人格の一つであるはずの「ぼく」が「いくつもの魂」をもっていると書かれている。そう、ペソアはここで、一つの身体内における人格の潜在的複数性にとどまらず、一つの人格内における劇場性をも告白していたのだ。

 

従って、上記の詩の直前に置かれた以下の詩は、まさに一つの人格内における劇場性をこそ示していると解釈すべきである。

ぼくらのなかには 無数のものが生きている

自分が思い 感じるとき ぼくにはわからない

感じ 思っているのが誰なのか

自分とは 感覚や思念の

劇場にすぎない

 

 

このようなペソア的人格は、自己のあり方が未完成であり続けることを不可避とするが故、ペソア的人格の産出するテクストも常に未完成の断章という形式を取らざるをえないし、自らが立てた計画のほとんども頓挫に終わることは自然の成り行きだろう。

裏から言えば、ペソアが詩集としてまとめ、完成品を世に問うというのは、ペソアという一人の人間=身体における、ペソア的人格概念と、一般的な意味での人格概念との相克の表れなのである。

 

ペソアのいう通り、「詩人はふりをするものだ」。"ふり"とは、ある人格を持つ人が、他の人格になりすますこと。だから必然的に、近代の詩人は人格概念から逃れられない(もちろん、非人間なものに人格を吹き込むことはできる*3が、その場合とて人格の論理に回収することは変わらない)。人格という概念は、この現実世界に生きる我々の言語では容易には逃れ難い。

だからこそ、特定の人格という視点に縛られた言葉としてではなく、パフォーマティブな実存的企てとして、人間ペソアが批評されることを待っている。その批評は、ペソアが拒否した精神分析のように真の人格の探究に進むのではなく、非人格化(=劇場化)の道を照らすべきであるべきように思われる。

 

今や、本書冒頭で掲げられたペソアの詩を、我々はよりよく受け止めることができる。

なにものかであることは牢獄だ

自分であることは 存在しないこと

逃げながら わたしは生きるだろう

より生き生きと ほんとうに

 

*1:人格を団体的なものとみなす見解について、法学徒はすぐさま安藤馨「団体が、そして団体のみが」(安藤・大屋『法哲学法哲学の対話』)との相違を考えずにはいられないが、ここではおいておく。

*2:鈴木『教養としての認知科学』(東京大学出版会, 2016)で示されていた、意識の複数競合モデルのような理解と通じるものがあるように思われる。

*3:我々はここで大森荘蔵の「吹き込み」説を思い出す。